加藤忍九郎氏について

加藤 忍九郎

加藤忍九郎 (1838-1918)

明治時代の実業家であり、明治5年に岡山県野谷村(現備前市)で、蝋石を原料とした石筆製造を始めると小学校での石筆普及によって事業を発展させました。

その後、蝋石を原料とした耐火煉瓦製造所を設立し、事業を急成長させるなど、備前の地域が蠟石鉱業で大きく発展するにあたって、重要な役割を担った人物です。

蝋石との出会い、石筆づくりへ

石筆づくり

明治5年、岡山県庁で蝋石と蝋石で作られた石筆が非常に高価な値段で売られていることを目にした忍九郎氏は、自分の村の山にも同じような白い石があることを思い出しました。

村の山で採れる蝋石で石筆が作れることを確信した忍九郎氏は「これから日本の子どももみんな勉強する時代になるため、石筆の需要は高まる」と見込んで、もともと営んでいた酒蔵の蔵まで石筆づくりの工場にしてしまうほど、石筆づくりに没頭していきます。

明治5年に政府が学校制度を導入すると、読み書きそろばんを基本に、全国の子どもたちに勉強の機会を与えました。

石筆 高価な石筆 チョーク

それに伴い、読み通り石筆の需要は高まり、忍九郎氏は事業を拡張していき、蝋石の採掘ならびに石筆の製造に専念していきます。
その後間もなく、三石に匿名組合白石館を建て、石筆の販売を営みました。

蝋石の採掘が間に合わないほど石筆が売れるばかりか、工場の拡張を大阪の商人から持ちかけられ合資会社を設立することとなり、事業はさらに大きくなっていったのです。
しかし忍九郎氏は、事業は大きくなるものの上質な蝋石をもって作る石筆づくりでは、そのうち採算が取れなくなることを予見していました。

耐火煉瓦を本格的に生産

耐火性に優れる 耐火煉瓦の生産のきっかけ

明治18年、農商務省地質調査所技師の巨智部忠承氏は三石の蝋石が耐火性に優れていることを見抜き、忍九郎氏に教えました。忍九郎氏は、このことに非常に喜び、耐火煉瓦の生産に乗り出すきっかけとなりました。
それから、難しいレンガづくりのために職人や陶器の技術者を招き、本格的に耐火煉瓦の生産を始めます。

研究に研究を重ね、明治23年11月に三石耐火煉瓦(株)を設立、その好調さには目を見張るものがありました。
忍九郎氏は、日清戦争後に起こった変動にもビクともしませんでした。

独自配合 レンガの生産全国首位

8年間の研究と隠忍自重の習性を生かし、むしろその難局を発展の一路へと繋げていったのです。

これは、忍九郎氏が三石の蝋石の本質をよく知っていたからでしょう。独特の配合を創案し、低コストで優秀な製品を焼き始めることができ、対抗工場の苦悶を尻目に、難なく危機を脱することができました。

大正9年、レンガの生産が全国の76%を占めるようになり、全国首位を誇るに至ります。
これまでの数字を築けたのも、忍九郎氏の力があってこそと言っても過言ではないでしょう。

山陽鉄道の誘致に尽力

山で採掘した原料を工場まで運ぶことに苦労していた忍九郎氏は、神戸~姫路間に鉄道が開通して、岡山~広島間の工事を予定する中、三石に鉄道を通してもらえるよう請願書を送りたいと村民に相談します。
その後、明治17年に布設線路期成同盟会を結成、同志を募って三石を通るルートの誘致運動を開始しました。

山陽鉄道 線路用地譲渡

村民大会・郡民大会・連合大会を次々に開催し、倉敷の有力者大原孝四郎氏、林醇平氏らのほか、広島県の福山や尾道にも協力を呼びかけました。そしてついに明治24年9月に山陽鉄道が三石を通り、福山まで開通しました。
これまで牛や馬車で輸送していたのに比べ、格段に便利になったことは言うまでもありません。

鉄道のルートが決定した際に忍九郎氏の家屋敷が線路用地に、また工場敷地の一部が駅構内になることが判明したものの、忍九郎氏が無償譲渡または定額譲渡を申し出たため、非常に山陽鉄道を感激させました。
山陽鉄道は忍九郎氏の行動に報いるため、終身2等パス(現グリーン車に相当)を贈ったと言われています。

蝋石に賭けた生涯

このように、加藤忍九郎氏は明治初年以来、さまざまな三石の蝋石部門に関わり、それぞれで大きな業績を残してきました。
この地にある蝋石を、開発改良を重ね、日本においてだけでなく世界にまで三石蠟石の良さを知らしめた、蝋石に生涯を賭けた人物といっても過言ではないでしょう。

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