耐火れんがの歴史

耐火れんがの歴史

蝋石に関わる産業

蝋石

この土地の人が蝋石の存在に気が付いたのは、古く遡ること寛成9年、三石町八木山の浄慶なる僧が蝋石を発見したことがきっかけでした。

発見された蝋石に彫刻を施し、時の藩主に献上したところ大変喜ばれました。それにより、蝋石で作った彫刻が全国へとしだいに広がっていき三石の名物となっていきます。

加藤忍九郎氏

学制分布後の明治5年、小学校学童用品として石筆の需要増加を知った加藤忍九郎氏(のちに蝋石に関わる産業を大きく飛躍させた人物)は、蝋石に目を付けました。

ここから、蝋石の採掘が大々的に行われるようになり、加藤忍九郎氏は自身の納屋で石筆づくりを始め、分布後においてその事業を拡張していったのです。

三石 吉永 日生 鉱工業を主とする地域

明治初期、加藤忍九郎氏の石筆づくりを皮切りに、町から出る蝋石の用途が盛んになります。石筆の他にも耐火煉瓦、クレー工業、陶磁器等の需要が増大し、三石やその近隣の吉永、日生地区の産業に大変革をもたらし、鉱工業を主とする地域となっていきました。
そして、明治18年に地質調査長である巨智部忠承博士により、三石の蝋石は埋蔵量、品質において優秀であること実証されます。それと同時期にヨーロッパの博覧会などへの出品により、ますますこれが実証されていきました。

耐火煉瓦

明治22年に農商務省臨時製鉄事業調査委員会が、蝋石を原料として製造した耐火煉瓦の成績が優秀であることを実証し、大きく前途が開かれました。

耐火煉瓦用の原料としての蝋石は、石筆用の蝋石と比べ低品位の物であっても使用が可能であったため、蝋石鉱山の経営を非常に楽にしたのです。

明治28年ごろには、採掘された蝋石が、今まで英国より輸入されていた製紙用クレーに代わって使用されるばかりか、逆に海外にも輸出するまでに工業として盛んになっていました。
このように、蝋石の用途が拡大していくにつれて、備前の蝋石鉱業は著しい発展を遂げていきます。

蝋石鉱業の著しい発展 備前地区 耐火煉瓦工業

明治末期には海外技術の導入等によって、国内産業の発達、とくに基礎産業である鉄鋼産業の発達に伴い、耐火煉瓦の需要が増大しました。
また製紙産業の発達による、蝋石・クレーの需要増大によって、蝋石鉱業は著しい発展を遂げ、備前地区の耐火煉瓦工業をさらなる隆盛に導いていきました。

大正9年、備前地区のレンガの生産が全国の76%を占めるようになり、全国首位を誇るに至ります。
諸官庁との連絡の緊密化や、三石吉永地区に多数興ってきていた同業者間の融和を図るため、昭和12年に任意組合でもある岡山県耐火原料採掘業(12名)が結成され、蝋石業のさらなる発展が期待されました。

耐火煉瓦原料・クレー原料・その他種々の原料

昭和13年ごろ、日中戦争・大東亜戦争による軍事増強で、耐火煉瓦原料・クレー原料・その他種々の原料として利用されている蝋石の需要は大幅に増加し、この年には33万tもの生産量を上げていきます。

ただ、その後の戦災により、重工業の大部分が壊滅的打撃を受けました。諸産業の復興も遅延していたので、耐火煉瓦・クレーという蝋石の大口需要者たる工業の不振が続きました。それに合わせて蠟石鉱業も不振となっていき、一時休山する鉱山も出始めました。

昭和23年には、任意組合であった岡山県耐火原料採掘業組合は、岡山県蠟石鉱業協同組合と改められ、鉱山用諸物資のあっせん配給等に携わりました。
しかし、戦後の復興の遅れや不景気などの影響を受け、生産量は減少してしまいました。

昭和35年以降 蝋石の生産上昇

昭和26年に鉱山保安法が適用され、通商産業局(現:経済産業局)の指導下に入ったことで、鉱山保安・採掘技術の面で進歩を遂げます。
その後も日本経済の景気変動の波に左右されながら、一進一退を繰り返しました。

昭和35年以降は、政府が所得倍増というスローガンのもとに実施した高度成長経済のもとでの製鉄などの重工業の発展を背景として、蝋石の生産も若干の波を持ちながらも、上昇傾向をとりました。

蠟石鉱業で有名な地域

中小企業近代化促進が定められ、昭和41年度から実施されるようになると、蠟石鉱業も指定業種となり、近代化資金の貸付けを低金利で受け取ることができるようになり、機械化が進むとともに、その生産量は飛躍的に伸びていったのでした。

このような背景で発展を遂げていった備前の地域は、蝋石業系統を中心に、他の運搬業・鉄工所などが、その運搬や機械の整備といった形で従属しながら発展していき、蠟石鉱業で有名な地域となりました。

岡山県教育学部社会科教室内地域研究室
『耐火煉瓦の町-岡山県三石町-』(昭和46年)を参考

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